藍染について

藍染とは

「藍」と聞いてイメージするのは手ぬぐい、風呂敷、浴衣など藍色の布製品ではないでしょうか。これらは全て日本の暮らしに密着する、日本文化の一端です。サッカー日本代表ユニフォームの「サムライブルー」もルーツは藍色。藍色は日本の色といえるでしょう。

戦後の高度経済成長を経て暮らしが便利になるにしたがって、藍の良さは次第に忘れられました。藍色は日本のイメージそのものなのに、私たちは藍について多くを知りません。日本の未来を健やかに育むため、藍について学び、素晴らしさに気づき、再発見し、伝承し続ければと願います。

(一般社団法人 日本フードアナリスト協会 監修サイトより抜粋)

藍染と渋沢栄一

渋沢栄一が生まれた「中の家」でも藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。
さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、作った藍玉を紺屋に販売していました。
良い藍を作ろう、阿波の藍に負けない藍にしようと考えていました。その一つに、相撲番付の形を利用して、良い藍を栽培した農家を順番に、大関、関脇、小結・・・とあてた「武州自慢鑑藍玉力競」の番付表を作りました。
この番付表は、渋沢栄一記念館に拡大して表示されています。「藍田は家を興す」と言われた藍は、経済人渋沢栄一のルーツと言ってもよいでしょう。

養蚕と渋沢栄一

養蚕の始まりは西暦450年、今から1550年前のことであり、日本書紀に「雄略天皇が皇后に蚕を飼うようにすすめた」という記述があります。現在、歴代の皇后が引き継ぐ形になっているのは、明治4年、昭憲皇太后が吹上御苑内で復興されたのが最初です。復活するにあたり、相談を仰せつかったのが渋沢栄一でした。

武州と藍染その歴史

武州は古くから木綿と藍の栽培が盛んで、農閑期を利用して家族の衣服を作ったのが紺織の始まりといわれています。
天明年間頃(江戸時代の1781年から1789年)に藍染の技術が伝えられ、明治40年代の最盛期には武州の一大産業で発展していったようです。
藍染の職人を紺屋職人と呼びますが、この当時で200件以上の紺屋があったと伝えられています。

江戸時代から続く伝統の武州藍染は、現在の埼玉県北部にあり、かつて、文豪「田山花袋」の「田舎教師」という作品で登場する青縞は武州紺です。
現在、武州地域(埼玉県北部)の藍染は、埼玉県の伝統的手工芸品に指定されています。